東京大学大学院情報学環教授・吉見俊哉氏による大学機関の変遷を描いた新書。
下記、面白かった要諦。

大学の誕生は2度あると本著ではされている。
1つ目は12~13世紀にかけての中世ヨーロッパ。1158年に北イタリアのボローニャ大学に、1231年にはパリ大学に教皇の勅書によって設立された。それ以降ヨーロッパに波及していく。当時、ヨーロッパの都市間では広域的に人や物流が活発化していた。多様な移動民が誕生し、故郷から離れ一生を過ごす多くの人々が誕生したために彼らが勃興した自治都市に集い、協同組合的な組織として知識交換ネットワークを築いた。それが大学の走りであったわけだが、校舎は持たず学生団や教師団は移動しながら学びのネットワークを広げた。Universityの語源はUniverse普遍性ではなく、Universitas組合団体という意味から来ている。
最初はイタリアのボローニャ。11世紀後半からペポやイルネリウスといった著名な法学者が同時代に在住し、彼らに学ぼうとする学徒がヨーロッパ全土から集まった。彼らの多くは異邦人であり、都市の慣習法では保護されない存在であった。そこで抜け目のない街の人々から自らの生活を守るために互助組織(コンソルティア)を形成した。初めは出身地域ごとに個別に分かれた互助組織(ナチオnation)であったが、各団体より代表者を選出し結束して運営する組織になり、それが大学となった。
皇帝による勅書によってもともとあった家族的連帯感は薄れ、より合理的な関係性へとなる。学生が受講料を束ね、習いたい先生を選任する。そしてまだ当時は大学がなかった故、学生団は移動することができた。地域の商業としても大きな消費者群であり、手放すわけにはいかず、学生のたちの要求は地域にも多く聞き入れられた。
大学の波及を支えたのは高水準の知識を有したキリスト教関係者であった。
15世紀まで画一的な大学が普及した。
そんな流れを止めたのが中世の秋。100年戦争やペストの大流行、気候変動などにより人々は中庸で穏和なアリストテレスの哲学から急進的で終末論的な思想を求め始めた。
そんな時代から脱却を図る大学の形成をしたのはウィリアム・オッカムによるオッカムの剃刀だ。キリスト教思想を自然科学から切り離し、より合理的に物質的な学問を体系し、神学に再び神秘性を与えようとした。
16世紀以降は大学の暗い時代となる。画一的で時代遅れのスコラ主義による大学運営は学習意欲の高い学徒たちから求心されることなくなった。
知のネットワークを引き継いだのは意外にも印刷工場であった。
グーテンベルクによる印刷革命により広く知識が普及していく。それも安価に。
知識人を抱えるのは大学や教会でなく出版業界となっていく。16世紀半ばには人文主義の教育を受けた人々は書店と結びつき、文筆業で整形をたてていくこととなる。知識人の興味の中心は中世ヨーロッパのスコラ的学問から人文主義と自然科学に向かう大きなきっかけだ。近代初期になれば彼ら知識人は信仰の有力者の保護を受け、アカデミーを形成する。サークルよりも格式があり長続きはするが大学の学部よりも格式ばらない組織であった。
アカデミーの教育の特徴は実学的で先端的であり、柔軟であること。伝統色の強いユニヴァーシティがジェントルマンの養成をするとすれば、アカデミーは実業家の養成に重きを置き、近代哲学や自然哲学、近代史など新しい学科に重視していた。
今日では「アカデミズム」は大学の象牙の塔と同一視し、旧態依然の権威主義的な価値観と思われがちである。しかし元々はアカデミーは旧態の大学に対してアンチテーゼのような存在であったわけであるから語源には則さない。
さて、第一の大学誕生とともにあった思想的核心はアリストテレスであった。それに対し近代大学の核心はカントともにある。
カントの大学設計は上級学部と下級学部に分けられる。
神学部・法学部・医学部は上級学部、哲学部を下級学部としている。ここで学問を峻別するには上級学部は社会的有用性を、下級学部は理性の自由を起源としており、大きく異なるために分けたとされている。
第二の大学の誕生は19世紀ドイツ・フンボルトによるもの。ナショナリズムの高揚を背景に国民国家型の大学を開発し、現在に至る。これはフランス革命とナポレオンに対する軍事的敗北による。フランスを発祥としたアカデミーを否定し、アカデミーが否定したユニヴァーシティを再発明することに努めたからだ。
フンボルト型大学の主軸に据えられた概念は「文化=教養」である。
文化は2つの切り口で捉えることができる。1つは文化は自然から理性に向かう歴史的なプロセスの別名。これは研究的な学知の対象である。
他方は発達のプロセス・人格の淘治である。この2つ、つまり「研究対象としての文化・自然」と「研究対象としての教養・人格」を統合して扱うこととした。
研究機関としての大学への飛躍は新大陸・アメリカで発生する。
当時、カレッジは有力者を育てるエリート機関であった。いずれの生徒も画一的な教育を受ける寄宿機関。ハーヴァードもエールもその程度であった。
その潮目を変えるのは独立の父トマス・ジェファーソン。バージニア大学を1825年に設立する。特徴的であったことは学生が所属学科を選べたこと。学科を分けることでより専門的で実践的な教育機関とすることを目的にした。同時代にハーバードではドイツ帰りの若手教授らによりドイツモデルをどのように輸入するか思案された。急進的な試みは保守派に拒まれる。
変革はジョンズ・ホプキンス大学に大学院をダニエル・ギルマンが設立したことによる。ドイツ型の大学モデルを「大学院」と新たなラベルを貼ることで保守層を懐柔
させ、改革が進んだ。またこの安定した研究機関の設立により学位の量産に成功した、

では日本ではどのようであったのか。
日本においても大学機関の誕生はナショナリズムの結びつきゆえ、ドイツの近代的再生に近い。しかしながら大学という制度自体は1880年代末期となる。しかもドイツの大学再生がない的な知と文化の勃興に根ざしていたのに対し、日本では西洋の知を移植するための翻訳機関が興隆したに過ぎない。
面白いことに日本の大学立ち上げの流れには中世ヨーロッパのように浮遊する知識人が存在する。幕末の志士父は19世紀半ば、江戸や大阪、長崎などを浮遊し、その地場にて翻訳された知識を必死で学び、外来の知を学んで行った。
明治初めに大学と名付けられた組織は大学東校、大学南校、そして大学本校があった。この大学本校の所在地である昌平坂に対して地理的に名付けられている。
東校(医学)、南校(西洋の理学・人文学・法学)を、本校(儒学)であった。そもそも大学という名称はユニヴァーシティと異なり、古代律令制の大学寮に由来する。もともと唐の制度で律令制のもとで官僚候補生への教育と試験を実施したという。
維新期にはエリート養成機関以外に専門性のある職能機関も必要となった。急進的な国力増加に進まなければならなかったからだ。そのために官立専門学校が設置された。ここに進学した多くは旧士族であった。廃藩置県後、身分の保証がなくなり生計を立てるために資格を身につけなければならなかった。
明治期は外来の知識を輸入する形態で日本の教育機関は形成された。その際にそれぞれの専門領域の宗主国が決まっていた。
法学はフランス、札幌農学校はマサチューセッツ農学校のクラーク博士、そして工部大学校はスコットランドであった。しかもリードしたヘンリー・ダイアーはグラスゴー大学卒業して間もない25歳の若者であり、彼は初代都検(校長)に就いた。彼を支えたのは同じ若人たちであったが、いずれもグラスゴー大学のウィリアム・トムソン教授の教え子であった。
東京大学は1877年に誕生するも約10年間は支配的な教育機関ではなかった。こうした状況には1886年の初代文部大臣の森有礼による帝国大学令による。東京大学から帝国大学に名称を変更し、国家との一体性を主張した。帝国大学令の始まりは「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ」とされている。司法商法学校の正則科も工部省の工部大学校も文部省に移管され、帝國大学に吸収された。様々な官制専門学校を吸収し、急拡大を遂げた。
森がなぜ帝国大学の組織に至ったのか。政治家前期の彼は自由主義を、文部大臣以降の後期は国家主義を標榜していた。そんな彼の思想変化をつなぐのが西欧の近代的な「制度」という概念であった。
政治的な主体であり客体である国民を育成する制度が近代化に必要と考えた。そこでアメリカのコミューン思想も参考にした。「コミューンにおいて体得された神=普遍性への自己犠牲の精神」という考えを転用し、国家建設への自己犠牲を通し神(天皇)により実現される政治共同体への貢献と考えた。天皇制とプロテスタンティズムの機能的な結合体であったのだ。
ちなみに帝国大学の帝国はインペリアルユニヴァーシティからとっている。
さて、旧制高校の廃止は戦後に起きる。国内随一のエリート養成校がなぜ亡くなったのか。これはGHQの指示ではなく、最後の東京帝国大学総長・南原繁による意向であった。南原は擬似宗教的な神話化にも、功利的な立つ神話化にも抗し、科学者といえども畏敬の念を持ち得るような知的理想主義の精神運動に信奉した。そこで新生日本が施工すべきは確然と知性に裏付けられた倫理的=宗教的な理想主義的理念であった。その揺籃の場として大学を捉えた。そこで知識の統一を図るために一般教養を徹底したカリキュラムを考案、実現のために旧制学校を吸収した。旧制高校のエリート文化においての教養は紳士の育成であったが、新たな東京大学では異なる専門分野を総合する力として一般教養を求めた。