Diary 2024.03.11
また今年もこの日がやってきた。
実を言うと3.11当日の衝撃は大したことなかった。農地や市街地、空港を津波が襲う映像が地上波に流れるも、その中に人はいない。どれだけの規模を伝えるためか、あるいは流れる人がわからないようにか引いて広域の様子が映し出されていた。
まだ高校2年生の僕にはそれがいまいちピンと来なかった。映画のワンシーンにすら思えた。
その日からしばらく地上波の番組はニュースだけが流れ、日を追うごとに事態が明らかになる。「若林地区で200-300の遺体が見つかる」との速報は焼き付いている。そんな具体数のわからない流れ着いた遺体のカウントが続報で積もっていく。
恐怖は感じた。だがそれでも降りたったことのない東北の地、とても遠い国での出来事。福岡には帰宅難民もおらず、震災後も電気も物資の流通に難を感じない。メディアでいう「Be With 東北」「東北とともに」などの日本全体での連帯感がピンとこない。大学で関東に進学し、それぞれの3.11を経験した友人たちと出会う。彼らは入学当初から学生活動を通して3.11で露出した社会課題と真摯に向き合おうとした。彼らとの温度差はコンプレックスですらあった。
大学1年生の春休みに東北へボランティアの機会に恵まれた。2年も経つとテレビでよく見た瓦礫は撤去された場所も多いが、一方でまだまだ仮設住宅が多く、その場にワークショップで赴いた。現地でであった子になんと声を掛ければいいのかもわからなかった。「元気?」とも「何が好きなの?」という言葉ももしかしたら傷つけるのかもしれない。当たり前のコミュニケーションが傷つけるかもしれない、そんな現実が日本にあったことを知らなかった自分を恥ずかしくすら思えた。(大学生になった自分は行動範囲が広がり自分の中の日本地図もグッと小さいものになっていた。)
このときに、やっと3.11が自分ごとになった。